|
||||||||||||||
1984 北米大陸 オートバイが好きだった。 誰かの本で読んだ通り「自立の象徴」だった。 夏休みに狭い日本を一周したら大陸の荒野を大型バイクで走りたくなった。 北米西部を28日間で14000キロ走った。 「気持ちよかった」 一日の最大走行距離は約1000キロ LAヤマハの展示品だった XJ750 はよく走った。 アリゾナでは三日連続スピード違反で捕まった。 だからではないがオンロードは卒業だと思った。 いつの間にかアクセルを握るだけの単純で贅沢な行為に過ぎなくなっていた。 オフロー道を精進するうちに今度は砂漠の旅に憧れた。 水も燃料も手に入らない、そして道路もわだちも無いような不毛の大地を 地図とコンパスを頼りに旅してみたくなった。 そんな折TVから目に飛び込んだのがパリダカラリー。 サハラ砂漠だった。 趣味と実益を兼ねた将来展望を次の旅に構築したものだが、 親はこれを「転落の人生」とぼやいた。 この旅から30年にわたる転落の人生が始まる。 三脚タイマー自動撮影 ![]() ネバダ砂漠 ![]() モニュメントバレー ![]() レイクパウウェル ![]() アリゾナ砂漠 ![]() デスバレー ![]() モニュメントバレー ![]() サンジエゴの岩漠
1987 オーストラリア ギブソン砂漠 会社を辞めた。 幸運にもオーストラリアは建国200年のバブル景気の盛りだった。 世界各地から技術屋が集っていて仕事を得るのは容易だった。 オートバイは現地の名メカニックBOBさんが中古マシンを蘇らせていてくれた。 2ヶ月で約2万キロを走ってオーストラリア大陸を一周。 夢のサハラ砂漠ツーリングのためギブソン砂漠とタナミ砂漠を横断 ギブソン砂漠の横断ルート通称ガンバレルロード「弾丸のように真っ直ぐな道」はガンバルロードと聞こえた。 カミカゼの命名かと思い込んで鳥肌が立った。 当時バイクや自転車で過酷な旅を志す日本の若者が多くカミカゼと揶揄された。 それはロードとは名ばかりの深砂とコルゲーション(洗濯板状波打ち面)の悪路の連続。 西海岸からエアーズロック間の全750キロに及ぶ無給油区間はサハラ砂漠のそれより長い 確かガソリン40L水10Lを積み、 予備タンクや装備の重量に耐えられるようフレームを溶接補強など万全の準備を行ったが、 乾季のアウトバック(内陸砂漠地帯)が洪水となる記録的な大雨の後の旅となった。 泥沼と化したアウトバックを七転八倒する羽目となり命拾いの完走の頃には 砂漠の走行に十分な技が身についていた。 肋骨が痛み赤土がパンツの中まで染み込んだが サハラ砂漠に挑む自信がみなぎった。 奇跡的に雨が降ったとしても サハラ砂漠に泥沼は無い。 ![]() アデレード近郊 フリンダースレンジ ![]() ナラボー平原海の向こうは南極 ![]() パースの北の奇岩 蟻塚だっけ? ![]() ナラボー平原、地平線を真西に向かうので夕日の直撃を受ける。 ![]() タナミ砂漠を横断 雨で砂漠が草原に そして熱帯地域へ ![]() ガンバルロード ![]() 乾季のアウトバックに洪水の雨やがて水平線が見え隠れする果てしない泥沼に七転八倒、ボロボロでドロドロに。 ![]() 野営 ![]() オアシス ![]() 北部熱帯雨林地帯ケアンズ周辺 連日豪雨 とても暑くて、寒かった、そしてずぶ濡れ 1988 サハラ砂漠 カタコトの英語で建築設計事務所に飛び込みパース(完成予想図)を描いて働いた。。 日本で駆け出しのパースペクィブアーティストは現地では一人前の評価を受けた。 溝引き定規にガラス棒と面相筆を使う繊細な表現力は箸を使う国「日本の技」だといわれた。 ボスはイスラエルからの移民、上司はポーランドからそしてインドネシア人は同業だった。 「昔はみんな英語が下手だった」 「共産圏から嫁さんと子供を連れて雪の国境を越えた」 「お前はマシだ」 の言葉に励まされた。 シドニーでの生活は1年になろうとしていた。 家(事務所)にはいろいろな旅人やライダーが出入りし夢を語った。 「航空貨物の空きスペースを狙え」とオランダ人ライダーから教わった。 煩雑な手続きや梱包も不要の上、確か600Aドルの航空貨物は裏技だった。 オーストラリアのナンバープレートを付けたバイクはそのまま各国を走ることができた。 シドニーからパリへで愛車を空輸し真冬のフランスを縦断、 日本製のオンボロフェリーで地中海を渡ってアフリカの地を踏んだ。 ところがアルジェ市チパサのキャンプ場で不注意から引火し出発早々マシン炎上。 (余熱の火が残っているのに気づかず空になったコンロを燃料パイプに近づけてしまった) 奇跡的に助かった黒焦げのXLR250で南北縦断をめざしたがニジェールへの国境越は断念。 その結果一ヶ月9000キロを走行アルジェリア国内に3本あるサハラ砂漠南北の縦断ルート (タネズルフト、ホガール、タッシリナジェール)の全てを走ることができた。 過去この三大ルートを全て走って一周したという報告を知らない。 (知らないだけ) (はい。負け惜しみです)
![]() 大満足! ![]() 月面?のような砂丘を登る。 ![]() アアサクラム山地の無名峰 ![]() 砂のブリザード ![]() パリダカライダー ![]() 石積、ドラムカンの道標が無くなってくると疑心暗鬼に「本当にこの道で良いのだろうか?」 ![]() サハラの交通 ![]() 砂に飲み込まれる舗装路 ![]() オアシス ティミムーン ![]() 砂丘を走るというよりも押して歩く サハラの縦断路ホガールルート南下の時約1mの路面の陥没に気がつかずに宙を舞った。 転倒のショックでハンドルが曲がり肩に激痛、縦断を諦めタマンラセットのキャンプ場に戻った翌日、天皇陛下崩御のニュースを聞いた。 ![]() 牛のドライアップ ![]() 永遠の工事現場 ![]() オンロードでも普通にオフロード ![]() 目指すは地平線 ![]() アスファルト舗装が突然消滅 ![]() 野良ラクダ ![]() 自分の轍(わだち) ![]() 轍(わだち)砂丘を越えた ![]() 岩漠を越える ![]() インネカ村のアカシアの木に伸びたチャーンを捨てた。フランスで買った新品チェーンが予想の半分で使用不能に 後日捨てたメイドインジャパンを回収して装着し旅を続けた。 砂漠では伸びたチェーンでスプロケットのギヤ山が無くなり空回りする程消耗する。 ![]() グランドエルグオリエンタル(東方大砂丘群)を南下 ![]() 轍を避けてキャンプ、さもないと夜北極星めがけて猛進するトラックの餌食に ![]() アサクラム山トレッキング、イタリア隊悪路で度々の転倒、まるでロディオ必死のニーグリップ。 ![]() アサクラム山のトレッキング、この先で暗闇となったころパンク、自力で手探り修理を完了し脱出のあと氷点下に ![]() ホガール、轍の幅は10キロに渡るという ![]() ガス欠に困るドイツ人にガソリンを分けた。後日タイヤに大穴があきパンク、ダマシダマシ帰路につくと 偶然同じ場所で再会し、同じサイズのタイヤを譲り受けることができた。この旅は度重なる強運に支えられた。 ![]() スタックしては必死に押して走る。転倒で割れたメーター類はテープで止めたがいつの間にか無くなっていた。 ![]() 「右へ行け」の道標,方向を示すものは轍だけ。 ![]() タッシリナジェール地図には舗装表記 ![]() 大木を見つけてキャンプしないと夜間トラックが突っ込んでくる ![]() 砂の地吹雪 ![]() 砂嵐 道が見えない ![]() 砂嵐 砂に乗り上げいつの間にか道から反れては冷や汗をかく ![]() タッシリナジェール ![]() トゥアレグ族 気合の入った砂漠の民 濁った井戸水を喉を鳴らして飲む。 ジャネット-タマンラセット約500キロ?をラクダと共に移動する。 砂漠を走る冒険を自負したところで彼らの前では軟弱文明人の贅沢な遊びに過ぎない。 彼らのように自分の足で歩きたいと思った。 それこそ地に足をつけた旅(人生)だと思った。 ---------------------------------------------------------- 愛車は約6万キロを走行していた。 見事な壊れっぷりにそれでも走るのが不思議だった。 マルセイユに戻った時通りすがりの若者に売渡した。 ---------------------------------------------------------- XLR250 帰国後同じマシンを購入 あれから約25年トラブルも無く同じ距離約6万キロを走行。 強靭な相棒だった。 経年劣化は相棒XLRよりも自分の方が早かった。 2014 手放した 我バイク人生に幕を引いた。
![]() |